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2017-01

大山祗神社弐年詣り - 2017.01.30 Mon

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今年も「大山衹神社」では、旧暦の大晦日2月18日から元旦の19日にかけて行われる“二年参り”で賑わいました。(旧年と、新年の二年にまたがって参拝することから二年詣りと言われています。)

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10時を過ぎたころ、神社のすぐ近く、木と藁で作られた棟に火を灯し、無病息災を願う伝統行事“歳の神”が始まりました。お神酒や、竹に刺したお餅を頂き、お餅はその場で焼いて焼き立ての柔らかなお餅を頂くことができます。

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会津で行われる歳の神とは、昨年神棚にお飾りした、しめ飾りやお供え物をお焚き上げして歳神様を天にお送りし、今年一年の五穀豊穣、無病息災を願うもの。この歳の神の火にあたると病気にならないと言い、この火で炙ったお餅や、するめ等を食べても1年間病気をしないという言い伝えもあります。
又、お酒は神様にお供えする事によりお神酒となって、そのお神酒を頂くことにより神の力をわけてもらえると言われています。

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歳の神も終わる11時頃、協賛の皆様が心を込めて準備して下さった、きなこ餅や、お蕎麦が参拝者に振る舞われ、長い列となり賑わっていました。あまりの美味しさに何度も並ぶ方もおられるほど!

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そして午前0時・・・
時間になると、お堂から太鼓の音が鳴り響き
お堂内では、祈祷を受ける参拝者が家内安全、無病息災などを祈り、
拝殿前では、手を合わせ一年の幸せを願う参拝者であふれました。

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最後に、拝殿の横でおみくじを引かせて頂きました。
宮司さんが丁寧に一年の運気についてお話してくれました。
引いたおみくじ、神宮館九星本暦に照らし合わせてお話しくださるので、1年の過ごし方を考えるいい機会になりました。

まだ二年詣りにお越しになったことがない方がいましたら、是非来年こそ参加してみてください。
おいしいお蕎麦やお餅を食べ、無病息災を祈りながら、幸せな1年を過ごしましょう!

今年も皆様が幸せに過ごせますように。

第2回にしあいづ観光案内ガイド組織設立準備会議 - 2017.01.26 Thu

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1月24日、観光ガイドの組織準備会が行われました。
この会の目的は、観光ガイドの実践をとおして西会津町の良さや歴史・文化・自然を観光客や町民の方に知ってもらうとともに、会員自身が交流を深め、楽しみ、学び、活動し、地域の活力に寄与するというもの。
この日は、観光ガイドの趣旨・規約の確認や意見交換を行いました。
今後の活動の詳細はこれから順に進めていきますが、西会津町の良さを広めるPR手段の一つとして期待の出来る会だと実感しました。今後に期待です!!


記事:猪俣(初投稿) 以後お見知りおきを♡♡

会津街道探索ウォークその1(2016.5.14-15)  2日目 - 2017.01.24 Tue

会津街道探索ウォークその1 二日目の模様です。

第2日 山内~中々山~赤谷~綱木~新谷(約13km)

昨日のゴール、山内口留番所跡をスタート。

◎陣場山の伝説と地名
 天喜年代(1053~58)の頃、黒鳥兵衛と言う山賊がいました。兵衛は関東に飽き足らず、阿賀野川を下り新谷・綱木を襲い、山内へとやって来ました。山内集落の人々は、家財道具を持ち出し山へ逃げ、山賊の通り過ぎるのを待ちました。ところが山賊は逃げるどころか、山に城を築き、毎日朝早くから宮古木や大友方面へ出掛け、夕方には獲物を持って帰る毎日が続いていました。やがて1か月位経った頃、いつもの様子と違い荷物を積んだ荷車が何十台も山を下り、一人も居なくなりました。黒鳥兵衛は、それから五十公野を襲い、天神城を築いたと言われ、その山は「陣場山」と言われるようになったという伝説が残っています。
また、天正15年(1587)9月、新発田重家の乱のときに赤谷城を落とした上杉景勝が米倉城を攻める際、ここに陣を構えたことから「陣場山」というようになったとも言われています。

◎陣場山の開墾
 陣場山原は面積およそ十町歩(約10ha)あり、新発田藩は幕末期に殖産振興のため、所有者の五十公野組大庄屋・井上鎮平から六町歩買い上げ、桑・楮の植付・紙漉場の設置・朝鮮人参の栽培を行いました。しかし失敗し、明治2年(1869)井上鎮平の長男・井上千之丞、陣場山差配・井上巳三郎(鎮平の二男)を中心に開拓を図りましたが、これも失敗に帰してしまいました。 
井上鎮平は明治3年11月に没しましたが、お墓は遺言によりこの地に建てられました。鎮平の陣場山開墾に注いだ熱意と開墾失敗の無念な叫びが伝わって来るようです。
陣場山は、廃藩置県後に新発田の町人に払い下げられ、陣場山開拓の幕を閉じました。

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CP23 角石原戦跡の碑
角石原は、戊辰の役の際の西軍と会津軍との激戦の地です。慶応4年(1868)8月上旬、西軍は山内に本陣を置き中々山まで進出、会津軍は赤谷から中々山の山中に陣を敷き境川を挟んで両軍とも砲台を築き対峙しました。
14日午前4時頃大雷雨の中、凄まじい大砲・鉄砲の打ち合いと両軍入り乱れての激戦となりましたが、最後には会津軍は中山・赤谷・滝谷の集落を焼いて会津方面に退却しました。
この戦いで、新発田藩は13人の戦死者を出しました。宝光寺には「戊辰殉難追悼之碑」があります。
角石原の「明治戊辰 角石原戦跡」の碑は、昭和12年(1937)に戊辰戦争70周年を記念して、当時の米倉村と新発田町の有志が建てました。
碑面題字は、溝口家十三代・溝口直亮爵の揮毫によるものです。裏面には、当時の米倉村の名村長で漢文の大家である斉藤倹治氏(号・穀山)の撰文・揮毫による追悼文が刻されています。

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赤谷周辺のことならこの方の右に出るものはいない、赤谷在住の郷土史家、杉原さん。
杉原さんの指す方向には。。。

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なんとカモシカがいました。

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CP24 藩境
今はなんの標識もありませんが、文字通り「境川」、「境橋」のこの場所が、かつての会津藩と新発田藩の境でした。新発田藩主が参勤交代を行う際には、郡奉行はここまで見送り、そしてまた出迎えました。
境川の対岸、上赤谷村を含む東蒲原郡は会津領であり、明治維新後は福島県となりましたが、明治19年(1886)5月10日に新潟県に編入されました。

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CP25 會藩戦死碑
慶応4年(1868)7月から8月にかけて、赤谷周辺の角石原、入鳥越、猪ノ原などで、会津軍と西軍の激しい戦いがありました。
このとき戦死した20名近い会津藩士を悼み、赤谷の方々が明治17年にこの石碑を建てました。この碑は建碑当時は個人宅にありましたが、その後不動尊境内に移転し、戊辰戦争120年目の昭和63年(1988)、県道拡幅に伴い現在地に移転しました。

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◎関ヶ峯城(赤谷城)と上杉景勝の赤谷攻め
関ヶ峯城は、寿永元年(1182)9月、城四郎長茂が築城したのが始まりと言われ、その後小田切三河守盛昭が天正15年(1587)に新発田重家の乱による上杉勢の攻撃に備え、新たに築城したと言われています。
天正15年(1587)、秀吉の越後平定の命により、上杉景勝は新発田重家と対峙します。しかし会津・葦名義広は新発田に味方したので、会津から新発田への支援路を断ち切るために小田切三河守盛昭の守る関ヶ峯城(赤谷城)を攻めました。
景勝は直江兼続らを連れ、上赤谷地区の南の小山に3日間陣を引きました。赤谷城を巡る攻防は、数の上でも圧倒した上杉軍の勝利となり、1週間ほどで落城しました。
龍泉寺裏の小高い寺山は、上杉景勝が陣を布いた場所で、大将陣場と呼ばれています。

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CP26 赤谷口留番所
上赤谷は会津街道の宿場町で、町の中央には用水が流れ、両側には旅籠が建ち並んでいました。用水は、昭和39年(1964)の県道改修により埋められました。
一九は「金の草鞋」で、次の様に記しています。
「つなきをたちて、くまささばかりおひしげりたる山道を一り半ゆきて、あかだにのゑきにいたる。此のところ、ゑちごとおうしうのさかいにて、あいづよりの御ばんしょありて、わうらいのりょしん御あらためなり。」
また、当時、上赤谷入口には、会津藩口留番所がありましたが、現在は当時の石垣しか残っておりません。

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CP27 大壇
大壇は、木曽義仲に敗れた城長茂が関ヶ峯城(赤谷城)に戻り、三段の大壇を築き妙見苦薩を祀り、源氏降伏を呪詛したと言われています。現在妙見菩薩は赤谷山神社に祀られています。

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CP28 聿修碑
聿修(いしゅう)とは、中国の古典・詩経から引用したもので、祖先の事績を書き記すと言うことです。宝永7年(1710)銘酒「飯豊川」を酒造していた赤谷の造り酒屋の片野氏が、赤谷開村などの歴史や、関東武将の太田資政との関係についてを刻んだ石碑です。市内最古の石碑で、新発田市有形文化財です。内容は、片野氏の先祖は赤谷保正と言う平塚の落人で、六戸の人々と赤谷村を創設し、城長茂が都としたことで繁栄したことや天正の戦火・明暦の水害、万治元年(1658)に大壇原に移転したことなどが書かれています。

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CP29 赤谷一里塚
会津街道には伝承を含め九基の一里塚がありますが、赤谷の一里塚はその一つです。一里塚は、最初徳川幕府か慶長9年(1604)2月「東海東山北陸の三道に一里塚を築かしむ。塚上皆榎植ゆ。」としました。
一里塚は、街道を挟んで二基の塚が築かれましたが、赤谷の一里塚は残念ながら道路拡幅の際、その一つが破壊され一基だけしか残っていません。また、塚には杉の木がありましたが大きくなり、危険防止のため伐採されました。
周径29m、高さ4m。

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郡境からは会津街道ファンクラブの川上さんのガイドで。

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CP30 郡境の祠
明治21年に綱木が東蒲原郡に編入、隣接する赤谷が北蒲原郡に残り、この峠が郡の境になりました。地元の人は今でも「郡界」と呼び、バス停の名前もそうなっています。
この付近、県道からちょっと入ったかつての旧道沿いに「郡境の祠」が今も残っています。祠は高さ90㎝、横1.8mの巨大な自然石の上にあって、街道の安全を祈願したもの、巨石のほうは会津街道時代には休み石といわれていたそうです。

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⦿お休み石
街道沿いにはかつて旅人が休憩した「お休み石」が残っている場所があります。荷物を降ろさずに休める、そういう絶妙な高さの石が配置されているんですね。

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CP31 石畳
郡境より南に少し旧道が残っていて、約100mほど石畳も確認できます。

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CP32 庚申供養の塔
碑面は風化が激しく、刻字は読むことが難しくなってしまっています。
2か月ごとにある「かのえ申の日」に仏家では猿田彦を祭って寝ないで徹夜することによって病魔、厄鬼を払うと言われていました。

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CP33 妙見大菩薩
当時の法光寺住職が地域の人々のために五穀豊穣を祈り、災害をなくしてみんなの暮らしを豊かにし幸せな生活ができることを祈念してこの碑を建立したものと容易に推察される。

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CP34 如意輪観音
1841年建立、一切衆生(すべての生き物)の願望を満たし、苦しみを救うといいます。また、往時は二十日講という如意輪観音を本尊とした講中があり、毎月の二十日に観音様を参拝して、遠藤與四右ェ門家に集まり、同家所有の観音像の掛け軸の前で念仏を奉唱して、それぞれの諸願成就を祈りました。

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CP35 綱木一里塚跡
上綱木集落の北のはずれにかつて「綱木一里塚」があったと言われていますが、県道の改良や昭和42年の羽越水害によって塚は消滅してしまったそうです。今は大岩が残っているあたりがそうだったとのこと。

CP36 綱木宿内旧道①

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昼食会場としてお借りした公民館で、綱木宿のガイドをしていただいた地元綱木在住の鈴木正彦さんに、かつての宿場の詳細地図をもとにじっくりと解説していただきました。

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CP37 旧山形屋
 かつて十返舎一九が泊まったと言われる旅籠で、著書「諸国道中金の草鞋」にもその記述があります。
 「かくてくれがたになりければ、いそぎたどりてつなぎのしゅくの山がたやといふにとまる。
へたのよこずき、此のやどのきうじする女をとらへて、くどきければ、女まじめにはらをたてるおかしさに、ちくらぼうとりあへず
渡辺の つな木のやどに茨木(いばらぎ)の 手のなき女 くどくおかしさ
ハハア、わしをぼうずだとおもって、せうじんかときくのだな。
とんだことをいふ。ぼうずがせうじんしてたまるものか。さかなをおもいれだしてくんねへ。
それともなくば、ししでもしかでもかまひませぬぞ。なんでもはやいいにへ。ひだるくって、こてへられぬ。
めったにせうべんもされねへ。ゆばらもいっ時といふから。せうべんもせずにすこしはたしにならふ。
おめへ、ここの女子しゆか。とんだうつくしいの、なんとばんに、わしのところへ、とまりにくるきなしかへ。
ハイハイ、おっしゃるとふり、ねっから気はございませぬ、わたしはきりやうがよっぽどよいとみへて、
どなたもそのやうにおっしゃりますが、どうぞそれを代で下さりますとよいけれど、
まさかどなたもそれはおいやじゃそうな。」

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CP38 綱木宿ご本陣
1639年頃より新発田藩や村上藩が会津経由で参勤交代する傾向にあり、恒常的にこの本陣を利用しました。また、戊辰戦争の際には資料を運び出して焼失を免れ、6,000点もの資料が二瓶家に残っているそうです。

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CP39 綱木宿内旧道②

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CP40 金毘羅大権現
佛教の守護神で、航海、水路の安全を守る神として信仰されています。1810年建立。この金毘羅大権現の碑石は綱木地内字無沢にある大物沢から引き出してきたと伝わります。それを裏付けるようにこの碑と全く同一の半分がその沢に残っているとのこと。
昔から巨木や大石など重くて動かすのが大変なものを大勢の人達によって搬出することを「大物出し」とか「大物引き」とか呼んでいました。また、大きくて重いものを運ぶソリを「大物橇」と言いました。
今から184年前、大豪雪で沢も川も雪に埋もれてしまった年、講中の者たちが碑石にするために大物橇でこの石を引き出してきたとのこと、以来この石があった沢を「大物沢」と呼ぶようになったそうです。

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CP41 湯殿山
明治16年9月建立。月山、羽黒山とともに霊峰出羽三山として名高く、往時より信仰者の多いのが湯殿山です。
綱木にも信心者が多かったのでこの碑が建立され、毎年登拝者は数日前から、斎戒沐浴をし、心身を清浄にして参拝したそうです。

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CP42 綱木宿旧道③

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CP43 旅籠山城屋の屋号石
かつて宿場として栄えていた綱木地区には旅籠が20軒ほどありました。そのなかで昭和25年頃まで営業していた旅籠が「山城屋」です。
嘉永5年(1852)2月8日、諏訪峠を越えてきた吉田松陰と宮部鼎蔵はこの山城屋に宿泊したとも言われています。
山城屋のかつての隆盛を誇るかのように今も石の看板が残っていますが、これは今の当主の曾祖父が自ら刻字して建てたと言われています。

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CP44 三界萬霊     
1833年建立。一切衆生の輪廻する三種の世界、すなわち欲界、色界、無色界。衆生(すべての生き物)が活動する全世界を指しています。

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CP45 馬頭観世音
馬頭明王ともいい、馬の保護神として特に江戸時代から広く信仰されています。綱木にも農耕馬として飼育している家が多かったそうで、馬の健全息災を祈念するものです。ここの馬頭観音は字体がとても興味深いです。

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CP46 弘法大師
明治17年建立。弘法大師の上に刻まれている梵字は、梵語で「カンマン」といい、不動尊を表しているとか。菩提寺の宗祖弘法大師の偉大なる道徳を顕彰するために檀信徒によって建てられたものとのことです。

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CP47 綱木宿旧道④

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新谷(あらや)宿に入ると、新谷なら絶対この人!という地元郷土史家、吉澤さんにガイドしていただきました。

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CP48 新谷一里塚跡
新谷集落のはずれに一里塚があったとのことですが、ここは山からの崩落が多い箇所で、今は失われてしまっています。
しかし、この日と次回、新谷から行地までガイドをしてくださった吉澤さんらのご尽力により、昨年一里塚跡を示す標柱が設置されました。文字は吉澤さんの筆です。

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CP49 旧新谷本陣
現在の安部家に江戸時代、参勤交代の際に村上藩主が宿泊した記録が残されています。

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CP50 新谷寺 新宮氏「首の宮」跡
南北朝の時代、会津の葦名氏とその家臣はふたつに分かれて争いました。北朝方の葦名氏についた金上氏と、南朝側についた新宮氏は長い間争い続けましたが、永享5年(1433)、津川城の攻防で金上氏が勝利し、新宮氏は滅亡しました。
阿賀町には新宮氏の伝説が数多く残されていますが、そのひとつ、新谷(あらや)の新谷(しんこく)寺には新宮盛俊兄弟の首塚があると昔から言い伝えがありましたが、今回ガイドをしてくださる吉澤さんにより、なんと3年前、津川城の戦いで敗れた新宮時兼父子ら4人の首級が祀られたとされる「首の宮」の跡と思われる遺構が発見されました。
文献(東蒲原郡史蹟誌)によれば「首の宮」に祀られているのは以下の4人です。
・新宮城主 新宮太郎時兼
・時兼弟  小荒井新助盛常
・時兼の子 参河治郎時頼
・時兼の子 尾張五郎兼光

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旧新谷木橋跡北詰 第1回二日目ゴール
新谷の宿を抜けて川に突き当たると、かつて木橋が架けられていた場所に出ます。当時は水害の度に補修しなければならなかったそうです。
第1回の会津街道探索ウォークはここ北詰でゴールです。
第2回は川の反対側、南詰からスタートです。

第2回の報告へ続きます。

2/26 第5回 冨士山スノートレッキング - 2017.01.16 Mon

第5回冨士山スノトレチラシ

1月27日~28日 大山祇神社 旧正月二年詣り - 2017.01.16 Mon


会津街道探索ウォークその1(2016.5.14-15)  1日目 - 2017.01.12 Thu

いまさらなんですが、、、、昨年5回シリーズで開催した会津街道探索ウォークシリーズ。
フェイスブックの方へは速報版を掲載しましたが、しっかりした報告はまだでした。
ということで、ブログの方へ詳細を載せていこうと思います。よろしくお願いします。

会津街道探索ウォークその1(2016.5.14-15)
~新発田城下まちあるき、そして藩境の攻防を偲ぶ旅 ~

第1日 新発田~五十公野~米倉~大槻~山内(約14km)

スタート地点 新発田城表門
現在の新発田城の場所は、室町時代に鎌倉幕府の御家人佐々木加治氏の一族で、新発田重家の館がありました。その後、上杉景勝との7年間の抗争の末、天正15年(1587)落城しました。江戸時代その館跡を古丸と呼んでいました。
慶長3年(1598)溝口秀勝公は、加賀大聖寺藩から6万石で新発田に移り、新発田重家の館跡古丸を取り込んで築城を開始しました。完成まで三代、実に56年を費やしたと言われています。

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初回は新発田市のガイドの方々の全面協力を得ました。
左から権瓶さん、佐藤さん、小柳さん(新発田市観光ガイドボランティア協会)
一番右が鈴木さん(新発田市図書館)

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新発田城内、そしてCP1~2のガイドを担当してくださった権瓶さん。

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城の完成から14年後の寛文8年(1668)大火により櫓・建物のほとんどを焼失。翌寛文9年(1669)の大地震により石垣が崩壊し、築城の努力は水泡に帰しました。
完全復旧にはその後30年を要し、正徳2年(1712)頃に完成したと言われています。
江戸時代274年間この地を治めた新発田城も、明治6年(1873)に本丸表門、二の丸隅櫓、石垣を残して取り壊されました。現在の表門は享保17年(1732)、二の丸隅櫓は、正徳2年(1712)頃に再建されたもので、新潟県内で唯一江戸時代から現在する城郭建物であり、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定されました。
また、三階櫓、辰巳櫓は平成16年7月に復元されました。
石垣は大地震の前まで「野面積」でしたが、五十公野古寺産の粗粒玄武岩による「切り込みはぎ布積」の美しい石垣に変わりました。現在の石垣は、350mで全国的に高い評価を受けており、市指定の文化財になっています。

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◎堀部安兵衛像
赤穂浪士四十七士の一人に数えられる堀部安兵衛は、新発田藩士200石取の中山弥次衛門の嫡男として寛文10年(1670)城下外ヶ輪に生まれたとされ、現在ここに「義士堀部安兵衛誕生の處」と刻んだ碑が建っています。
初代藩主溝口秀勝公の外孫で極めて由緒のある出自でありましたが、幼少時は家庭的には恵まれませんでした。母・母方の祖母(秋香院)・父・母方の祖父と次々に亡くして、16歳にして1人残されました。19歳で江戸へ出て家督再興のため文武両道に励んでいるうちに運命の岐路となる大事件に遭遇、世にいう高田馬場の決闘です。
この助太刀によって江戸市中にその名が轟き、赤穂藩堀部氏の女婿となり浅野家に仕えました。元禄14年(1701)「松の廊下」の刃傷事件で主家は断絶、かくして主君の仇討ちを決め、安兵衛はその急先鋒となります。
元禄15年(1702)12月14日。赤穂浪士四十七士は、吉良邸に討入り念願の義挙を果たしました。

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これは二の丸のお堀の名残だそうです。

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CP1 ふとんかけの松
 現在の地方裁判所の敷地内にある立派な松で、江戸時代、見事な枝ぶりから新発田一の銘松と称えられていました。
1719年の「与茂七火事」の際に、人々が逃げ惑う中、町の人々が布団を掛け水をまいて守ったとことから、「ふとんかけの松」と呼ばれるようになったそうです。

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CP3~6のガイドを担当してくださった佐藤さん。

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CP2 追手門跡
三の丸から新発田城の正面入口にあたる追手門が現在の警察署付近にありました。追手中の門・追手門等重要な門には定番があって、常に出入りの人々を監視していました。

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CP3 札の辻
街道の起点。ここにはかつては高札場がありました。町人町の中心でした。付近には、町検断所や町会所などがありました。昭和初期の頃には、殆どの建物が新しく変わってしまいましたが、道路は江戸時代の頃と変わっていません。

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CP4 立売町と萬町
新発田城下町の出入口に当たる立売町と萬町は城下の主要な町内で、中古衣料品や古着屋及び衣料品間屋小売店が軒を連ねて繁盛してきた町です。
十返舎十九が文化11年(1814)に新発田へ来ていますが、「諸国道中金の草鞋」の中で、
『それより新発田の御城下にいたる。このところ商人大家多く軒を並べてはんじょうのところなり。ことさら市の立つ日は近郷にまれなるにぎわいにて遠近の人ここに集まる。ことさら萬町というところ両側に古着屋ありてにぎわいければ家ごとに千早ふる屋たちつづき神の守れる八百よろづ町』と書き記しています。また、嘉永5年(1852)に訪れた吉田松陰は「東北遊日記」に
『市中頗る繁盛にして、毎月九の日を以って市を為す。而して今月は其の日に当たり、民庶雑踏し貨物粗ば備わると市中の賑やかなことに驚いている。』と記しています。

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CP5 上人数溜
立売町の大木戸前にありました。城下防御のために設けられた空き地でした。
防火のため及び有事の際には兵を集結させるために備えられていました。
下人数溜も城下の下鉄砲町にも同様に構えられていました。

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◎足軽長屋
新発田藩時代の足軽が居住した茅葺平屋建の八軒長屋です。
会津街道に向かって幾棟か足軽長屋有りましたが、現存しているのは天保13年(1842)の棟札が見られるこの一棟のみです。
昭和44年国指定の重要文化財になっています。

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新發田名物「からずし」。

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お米のかわりにオカラで握ったお寿司です。

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CP6 道標
会津街道と三国街道の追分の道標です。元来は、向い側に設置されていました。(このため左右の方向が違っています。)
碑面
正面・左 奥洲通東京道 
右面・右三国通 水原 新津 長岡道 左面・明治五年壬申年三月 
碑陰・当所 森山平吉 
花崗岩の四角柱、高さ1m位 
道路改修時に現在地に移動(昭和30年代中頃) 

追分を左に進むと、羽越線(大正元年9月2日開通)です。
上鉄砲町から旧五十公野村へ通じる上杉畷は、上杉原と呼ばれ新発田の殿様が主として参勤交代の住復道で「会津街道」と称された重要な街道でした。
吉田松陰や十返舎一九もこの街道を通って新発田へ来たこともよく知られています。
一九は「金の草鞋」で次の様に記しています。
「よねぐらより一り行きて、いちみのといふところのしゆくにつく。このところは、むらかみかいどうとしばたとのおいわけなり。いちみのよりしばたまで一りのあいた、すきのなみきなり。
いくとせか 杉の並木の 青くと 市がさかへた いちみのの宿」
尚、三国通りの荒町への街道は、松並木でした。

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CP7 金升酒造
1822(文政5)年創業。大正8年に現在の場所に移転。
酒造りの適地として「水の便よろしき事・米産地の中央たるべき事 ・交通上至便の地たるべき事 ・販売地域の拡大たるべき事 ・都会地に接近し、子女の教育上便利たるべき事適地である」という記録が残されています。
現在の場所は旧新発田藩主、溝口公の御菜園があったところで、当時の面影は、今も酒造りに使われている蔵や情趣に富んだ日本庭園に残っています。

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CP8 大曲
現在の新発田高校付近で鈎の手に道路が曲がっている所を大曲と言いました。新発田城の防備のためと言われています。この道の傍らに茶屋があって、赤谷方面から交易に来た人々が昼食や一服をしました。
街道は、鬱蒼と繁った杉並木でしたが多くは昭和十年頃から伐採され、更には第二室戸台風(昭和三十六年)残らず伐採されて人家が立ち並び杉並木の面影はなくなりました。
この道を、昔会津領の人々は越後街道・津川街道・赤谷通り・新発田街道などと呼んでいました。

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CP9 殿様踏切         
旧国鉄赤谷線の廃線敷きが自動車と歩行者専用の道路です。

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CP10 道路元標
突き当たり五十公野の交差点に追分の碑(五十公野村道路元標)があります。
江戸時代に宿場町として栄えた五十公野は追分の地です。江戸へ向かう時の会津街道、新発田城下入る新発田街道(杉原街道)から三国街道、そして村上・米沢街道へと続く道が通ってまさに新発田の表玄関でした。

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CP11 五十公野お茶屋
初代新発田藩主秀勝公が新発田に入封して直ぐ、城の構想を練りつつ住んだ縁の地に、三代宣直(のぶなお)公が別荘として明歴元年(1655)に建築しました。敷地は約34,000坪で、五十公野お茶屋と呼びました。
歴代藩主は、会津街道を利用しての参勤交代の時には、城内から五十公野までの間は盛装をして行列し、このお茶屋で休まれた後に江戸へ向かいました。
普段は重臣に使用させ、茶会を催したりしました。
現在のお茶屋はもっと整った時期の文化11年(1814)当時の棟札が発見され、平成11年に復元修理されました。

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四代重雄(しげかつ)公の時、幕府の茶道方で遠州流の茶人縣宗知(あがたそうち)を招き、諸国名所の種苗を取り寄せ、「心」の字をかたどった池を造りました。

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五十公野の茶屋の復元に携わった新発田市図書館の鈴木さんが、詳しい見所を説明してくださいました。

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CP12 お灰塚
新発田藩藩祖溝口秀勝公は、慶長15年(1610)9月23日逝去されました。その遺骸は五十公野の栃山で火葬にふし、その場所に灰を集めて塚を作り石佛を建てお灰塚と呼びました。また、傍らに一字の庵を結び石佛庵(後に大鱗庵と改称)と称し、江戸吉祥寺の末寺としました。明治44年五十公野小学校増築のため、堂宇は取り壊し石佛は台座と共に小学校敷地の隅に移動するも、昭和46年にその場所に道路を敷設することとなり、現在地に移転したものです。

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CP13 一里塚跡
今は痕跡すらありませんが、かつてこのあたりに一里塚がありました。

◎古寺石
寛文9年(1669)5月に大地震が発生し石垣の大半が崩れました。翌年から積み直しが行われ、それまでの乱積みから「切り込みはぎ」、角の部分は「算木積み」になりました。
石は、佐藤食品工場の裏手古寺山から産出された「古寺石」と呼ばれる祖粒玄武岩が使用されています。現在は、石の産出はありません。

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CP14 天ノ原・みちしるべ
道標には「右えどみち 左やまみち」の文字がみてとれます。かつては街道沿い旧板山屋前にあったそうで、他の多くの道標と同じく、道路拡張以後ぞんざいに扱われていましたが、心ある方々の力により今の位置に保存されたとのことです。

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CP15 はちまき石
丑首・清源寺境内にある石塔は白いスジがはいっていて「はちまき石」と呼ばれています。ある「モノ」を象徴しているとか。

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CP16 大庄屋・旧斎藤家(有機の里交流センター)
斎藤家は保元・平治の乱で活躍した武将斎藤実盛の末裔で、溝口氏の治世において新発田組大庄屋をつとめました。現在の建物は藩主が休息等で立ち寄った際に利用した書院です。
初代・左馬乃助康盛は、新崎・高森(新潟市)麓(新発田市)を経て天正年間(1573~92)に米倉に土着し、佐々木加地氏の武将として二百苅を領しました。   
新発田重家の乱の戦いで、天正14年(1586)9月米倉城は直江兼継の五千の兵に攻められました。この時、斎藤藤左之助忠光は侍大将として活躍したと言われています。
城主・木下縫殿之助は討死し、木下勢は直江方に降参しました。(木下氏は佐々木高綱の子孫)新発田藩主・溝口秀勝侯が新発田に入封すると「御頼み分にて」として、大肝煎に任命されました。元文元年(1736)正月、七代目嘉兵衛が藩に無断で江戸へ出たとして御役御免になりましたが天明年中(1781~89)に再び大庄屋に復活し、明治維新まで続きました。地域の人々からは「オヤカタサマ」と称されました。
斎藤家を訪ねた良寛は、斎藤家所蔵の漢籍を見るために、十一代・忠藏の文化9年(1812)頃、同家を訪れています。この時に作った60字の漢詩を「草堂集」(詩集)にしています。この漢詩は推敲を重ね、古い順に①草堂集貫華「過某別墅」②草堂詩集「題藤氏別墅」③草堂集「藤氏別館」となりました。この漢詩を五言六句に摘録整詩した「去城一里余…」の詩碑が新発田ふるさと会館前庭にあります。
この旧斎藤家は平成18年にコミュニティ施設「有機の里交流センター」として整備されて憩いの場として一般開放されているので、今回はここをお借りして昼食をとりました。

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庭には殿様がかごを降りた「かご置き場」とみられる長方形に埋め込まれた敷石があって、殿様はそのまま石づたいに建物へ入れるようになっています。

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庭園は清水園や五十公野御茶屋庭園と同様、江戸中期の有名な庭師・茶人、縣宗知(あがたそうち)によってつくられたものと伝わります。

◎米倉松原と千代ヶ野原松原
丑首~米倉間を米倉松原、米倉~大槻間を千代ヶ野原と言い、両方とも道路両側に老木鬱蒼とした松並木が続いていました。しかし、米倉松原は戦時強制伐採により消滅し、千代ヶ野原松原は明治26年(1893)県道改修により道路筋も変更され、同時に松原も消滅しました。

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CP17 普門院           
康治2年(1143)にある僧が京都から本尊となる十一面観音を背負ってこの地に持ってきたと伝わります。享保18年(1733)に本堂が再建されたことを記す棟札が残っています。

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CP18 米倉神社
創建は不明ですが、地域で祀られていた17社を合祀したと伝わります。境内の祠には疱瘡神が祀られていて、かつて米倉の人々は天然痘をもらたす神を丁寧にお祀りすることで軽くすむように祈ったそうです。
また、米倉神社には七代・直温公筆と言われる「絵馬額」があります。残念ながら剥落が著しく図柄は不明ですが、同様の額が日枝神社(山王)にもあります。

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◎十返舎一九の見た米倉
一九は「金の草鞋」で、米倉を次の様に記しています。
「これより大まつばら 一里ばかりゆきて、 よねぐらのゑきにいたる。 
豊年の 貢ぎと降れる 雪国の ましろに見ゆる 米倉のしゆく」
※大まつばら=一本木原松原と千代ヶ野原松原と、雪と米倉の米の白さを掛詞に記しています。

◎米倉隼人介安中の伝説と木下縫殿之助
仁平3年(1153)頃、米倉集落には米倉隼人介安と言う豪族がおり、その勢力は川東・松浦・五十公野にも及び、山には難攻不落の城を築き、治水にも意を注ぎ開田したので村は大いに繁栄していました。
米倉家では、金の臼を当主の印として代々伝えていましたが、200年後の米倉家七代の時、木下縫殿之助(市史では縫之助)に攻められ、山伝いに沢口・大槻の山へ逃れましたが、逃げ切れず持っていた金の臼を天黒谷の東の谷底へ投げ入れ、ここに米倉家は滅亡しました。その後、この山は臼が森と呼ばれる様になりました。
新発田重家の乱で、天正15年(1587)9月14日赤谷城を落とした上杉景勝は五十公野城攻めの途次、新発田勢の木下縫殿之助の居城・米倉城へと迫り熾烈な戦いの後、遂に落城させ、縫殿之助は自刃して果てました。

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CP19 一本木原松原
新発田藩には、一本木原のほか8箇所の藩有林があり、勘定奉行の下に数名の山方掛を置き、各山には御林守と下見役を置きました。
一本木原の御林守は、文政11年(1828)6月から菱田吉郎左衛門が任命され、以後幕末まで続きました。
一本木原藩有林の植林状況は、
承応3年(1654) 松 49,220本 
貞享3年(1686) 松 46,980本
を数えましたが、明治維新後の民間払い下げ、戦時中の松根油搾油や強制伐採により姿を消しました。
一本木原は、大槻の大倉仁左衛門が藩名を受けて、道路開鑿と共に道路両側に松を植え付けたのが起源と言われています。その松原も現在は、米倉小学校周辺に当時の面影を残すのみとなりました。近年虫害により数本の伐採を余儀なくされ、これ以上の消失は阻止したいものです。

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CP20 一本木原稲荷の伝説
何百年も大昔、都からの落人の太兵衛どん・佐衛門どん・彦兵衛どんの三人が一本木原の加治川の川辺に住んでおりました。三人は、日頃から信心しているお稲荷様を自分たちの屋敷にお祀りして、山や藪を切り開いて怪我もなく順調に繁栄したのは、お稲荷様のお蔭だと喜んでおりました。
その頃、加治川に沿った道は細く、特に春先には旅人が雪崩のために怪我をして、三軒の家へ助けを求めることが何度もありました。そこで太兵衛どんは気の毒に思って、お稲荷様に旅人も守って頂きましょうと、屋敷から離れた今の場所に道の方に向く様にしてお移ししました。
旅人は、ここを通る時は必ずお詣りする様になり、それ以後雪崩などは無くなり、旅人は安心して通れる様になりました。
旧会津街道は、この一本木原稲荷の前を通って山内宿へ行ったものと思われます。

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CP21 山内口留番所と山内宿
山内口留番所は会津藩との藩境の手前・山内に位置する新発田藩の口留番所で、古くは、「桂の関」と言われていました。
番所の役人は通常4~6人位で、番所上番を長らく勤めた菱田家には当時の古文書が残されています。一九は「金の草鞋」に、次の様に記しています。
「あかだにを出でより一りのあひだ、山のそばみちをゆく。ひだりのかた、あら川みなぎりながれてけいしょくよし。山のうちといふにいたれば、しばたよりの御ばんしょあり。ちゃ屋にあんないをたのみ、御ことわり申して打とふるなり。」
山内は会津方面からの最初の宿場で、家並は今でも当時の雰囲気を感じることができます。

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CP22 塩止め事件 処刑場跡
新発田藩三代・溝口宣直侯の時代、新発田藩から会津藩へは塩を、会津藩からは蝋燭の交易がされていました。それが明暦3年(1657)から万治元年(1658)に会津藩から蝋燭が来ないので、新発田藩から塩を送らないことがありました。
本来、商人同士の交易でしたが、会津藩は「新発田藩の意図によるもの」として、新発田藩を潰しかねない程の威嚇にも似た抗議をしてきました。会津藩主・保科正之は徳川二代将軍の三男で親藩の大々名であり、新発田藩は、その対応と危機感で苦慮しました。その時、井上久助が「郡奉行の地位を利用して、私利私欲のため塩を他国に売ったもので、新発田藩は一切関わりがないもの」として、単身会津藩へ出頭し、焙烙の拷問などにも耐えて一身に罪を被り白状しませんでした。
結局、井上久助は会津藩役人立会のもと、山内留番所付近で斬罪に処せられ、新発田藩は窮地を脱することが出来ました。
『御記録』(「寒廟紀」三代・宣直侯)の万治3年(1660)の記載は、「十月十日 会津役人立ち越し 山内村口留番所辺にて 井上久助斬罪に行う 会津より蝋燭を指し越し 御領分よりは塩を差し遣わし候事 年々堂列に候処 会津より蝋燭を差し留め候に付御領分よりも塩を指し留め遣わさず候処 会津にて 殊の外 遺恨に存じ 罪人差し出さず候らわば 御家の御難儀に及ぶ可く事体に付 関わり候役儀にもこれ無く候ら得共 御上への忠悃を存じ みづから罪を引受 会津へ参り 塩留一件は私の所為にて 領主には少しも存じ申さざる旨 申し述べにより。」とあります。
尚、斬罪の「年」については諸説あり、古い順に
・「蕉鹿年代記」明暦3年 
・「世臣譜」  万治元年 
・法華寺および井上家過去帳 万治2年 
・「御記録」(寒廟紀) 万治3年
と、なっていますが、「日は、何れも10月10日」です。この「塩止事件」は「新発田藩の三大事件」に数えられています。

街道ウォーク初日はここでゴール。
お迎えのバスに乗り、この日の宿泊、ホテル三川に向かいます。

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この街道シリーズの重要な要素のひとつ、参加者みんな宿泊しての懇親会。
第1回なので初対面の方も多く、全員による自己紹介が続きました。

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スタート地点の新発田の銘酒、「王紋」も楽しみました。

2日目に続きます。

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にしあいづ観光交流協会

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